天気の子 感想

 初日初回を観ました。良い作品ではつまらない映画だなぁと思いました。正直2000円近く出す価値はないようなとも。

 正直記憶も薄れかかってて色々怪しいんですが、小説版を以て記憶を喚起しながら気になった点をいくつか。パンフレット等も買っていませんから制作陣から言及されている点があっても悪しからず。

 

・軸として描かれている「大人」と「子供」

  子供である帆高に陽菜、凪。子供から大人に移る過程っぽい夏美。大人の須賀と警察の面々。東京、特に新宿も大人の世界として描かれている。大人に対抗するために大人の街で拾った拳銃を使うというのはかなり作為的でイマイチだなと思いました。拳銃というのは大人の世界でもNGなもののわけですから、子供が大人と対等になるためにはそれくらいのゲタを履かせる必要があると考えた、意志の強さを表現するために適当だと考えたのかもしれませんが安易だったんじゃないのかなと思いました。

 陽菜を助けるために行動したい帆高を大人たちが邪魔をするみたいな話の流れになっているようですが、そもそも帆高が警察に追いかけれているのは家出と拳銃使用という科のせいであって、陽菜救助の邪魔を目的としているわけではありませんからある種のすれ違いというか対立点としては成り立っていない感があり首を傾げてしまいました。知らないフリをしてとか言っていますが、本当に知らないのであるから言われた方も困惑でしょうね。晴れ女業の仕事も自分たちのためにやっていたわけですから、そこで非難されてもなぁという。

 

・世界を決定的に変えてしまった

  世界を決定的に変えてしまったと言っていますが、変えないことを選択したのではという思いが拭えない。犠牲によって成り立っている世界を変えたということなのかもしれませんが、どうもそれはメタ的に感じるので嫌。結局の所二人しか知らない話と言ってはいますが所謂中二病な感を否めず、世界を変えたと言う思い上がりにしか感じませんでした。

 

・「きみとぼく」

  天気の子はセカイ系だと言われる。セカイ系なるものがよく知らないのでアレですが、社会が欠如して云々、彼女を取るか世界を取るかが云々いろんな定義があるようです。よく知らないのに言及するのは良くないことなんですが、天気の子に関して検討するとこの作品において欠如しているのは「きみ」と「ぼく」、つまり陽菜自身と帆高自身についてではないかと思いました。

 社会に関しては最初の満喫生活の件や晴れ女の仕事を通して描かれていますし、須賀や夏美を通して関わり続けるわけですから、十分に描かれています。一方、帆高に関しては劇中においては家出した理由は不明で島での生活についてもほとんど明かされていない。しかも、陽菜や凪といった周囲の人間との絡みはあるものの、そこで描かれる姿にはどの場面をとっても同じ思考しか見えないというのは過言ではあるでしょうが、キャラクターとして非常に薄い。主人公ではあるから画面に映っている時間は長いものの、その長さに見合ったキャラクターとしての厚みがないと感じました。セリフを吐き出すだけの装置のよう。陽菜に関しても同様で帆高に比べればマシではありますが、思考が見えない。

 陽菜が晴れ女になった、晴れを願ったことによって雨がやまないという現象が生じたわけではないので、陽菜を救うか世界を救うかみたいな話に関しても、いまいち乗れない。物語に切迫感、危機感の欠如があるなと。そもそも人々には危機と認識されているわけでもないし、世間から陽菜を犠牲とすることを明示的に望まれているわけでもないですから帆高の選択に選択したという重みが感じられないように思いました。普通に観ていけば、陽菜を助けないという選択肢は現れませんからね。帆高は世界や社会というものに対して価値を見出していませんから。須賀は一人の犠牲で世界が良くなるのであればいいじゃんみたいなことも言っていますが、あの世界の模範的な人間ではないですし、もともと狂った世界だからとかフォローもしているので。

 突き詰めてみると陽菜の独りよがりな自己犠牲精神を自己中心的な帆高が否定したという話であってそれはセカイ系みたいなふわっとした一部の人間でしか共有できない概念で語るまででもないし、かえって作品理解の妨げになるのではないかなと思いました。

 

・降り続ける雨と沈む東京

 一番うーんと感じたのは小説版にあった2年以上かけて東京東部が沈んだというところです。大雨特別警報が発表され、1時間雨量が150mmに達するような雨が降ったという。その後一時的に雪となり雨となり晴れとなって、降り止まぬ雨となるわけですが、江戸川の氾濫想定は上流の3日間の総雨量が492mm、荒川は流域の3日間総雨量632mmで作成されていますから、関東圏に低気圧が居座りひたすらに雨を降らせている状況では特に陽菜が地上に帰った直後は豪雨の描写でしたし、ゆるゆると水に浸かるわけはないだろうと感じました。ここらへんはどの程度監修があったのか知らないですし、話の展開に大きく関わることではないので気にするだけ野暮なんでしょうが、選択の代償として東京水没が描かれているわけですから。

 

・脇にいるキャラクターたち

 脇役として立花瀧宮水三葉等が登場しますが、瀧くんは前に出過ぎだなと思いました。天気の子の中で一番きつかったのは木村役の木村良平、花澤カナ役の花澤香菜、佐倉アヤネ役の佐倉綾音です。声豚としか形容のしようがないこの命名の仕方はしんどいです。どういう意図があるのか知りませんが、花澤佐倉のキャラは他のキャラクターに比べて"アニメアニメ"した喋りをしていて小学生といえども他のキャラクターとのギャップが著しく異物でしかなかったです。

 

 ・その他

 仄聞したところによると貧困とか閉塞感みたいなことを意識したらしいのですが、確かにそんな雰囲気のある部屋だったりするわけですが、新海誠の美麗な世界だとどうもそれを感じにくい。たしかにこれまでの作品と比べるとジメジメとした画面ではあるものの、あの世界で生きる人間も陽菜も帆高も凪もジメッとしたところを感じない。どんな状況でもたくましく生きる子どもたちってことなんでしょうが。そもそも帆高は進んで苦しい生活を送っているので論外ではありますが。社会は社会で自分たちのことにしか興味がないんですよね。陽菜に対しては関心ないし、帆高に対しても法に触れてるから関心があるだけでその他のことはどうでもいい。

 結局の所人々の閉塞感の現れである"雨"をうまく扱えていないのではという感すらあります。美しく描きたいのか汚く描きたいのか、一体どういう世界なんだろうと。現実そっくりそのままというのは制作のレベルの高さの表れでもありますが、描きたいものを描くためにそのレベルはコントロールされるべきであって。なんとなくバランスが悪いなと感じました。

 演出の一環で楽曲を使うのはよくあることですし君の名はでも効果的に使われていましたが、あくまで添えものあるべきであって、歌自身が歌詞そのものが映像のメインとなるような、あるいは作品の内容を補完するような使い方は歌詞に興味がわかない人間としては辛いものがありました。

 私は物語の主人公からなんでもどのようなものでもいいから成長を感じたいと思っているのですが、正直帆高からは感じられなくて、己を貫くことはそれは大事ですし良いことではあるのですが、これは上で述べたようにキャラの薄さに起因するのかと思いました。例えば後半のシーンでは拳銃を使わずに切り抜けるとか何かあれば良かったのになと。そもそも、拳銃使用は陽菜が嫌がることでしたし、なりふり構わずということなのかもしれませんがやはりいまいちだったなと思います。